うたうポリゴン

魔王K++(ケープラ)のポータル兼個人ブログ

池江璃花子最悪のプロパガンダ、翼賛報道は民主政治の危機

 元々、オリンピック反対派(以下「反オリ」)はIOC組織委員会の体質、政権との関係性、膨らみ続ける予算、電通やスポンサー企業・メディアの利権、ボランティア大量動員・搾取といった運営面を批判していた。概ね正しいと思いながらも、コロナ禍でなければ正直私もそこまで乗り切れなかった。
 森喜朗の辞任劇で、彼だけでない組織委員会前近代的体質も明らかになった。開会式の演出問題もあった。ネットは元々スポーツ嫌いが多かったが、今や世間も否定的になっている。

 7日夜の記者会見で、菅首相は「アスリートに優先的にワクチン摂取する」と明言した。看護師500人動員、選手用病床確保という話もあり、まさにこれは五輪アスリートを「上級国民」待遇にすると宣言したようなものだ。
上級国民 - Wikipedia
 すなわち、最近では山田真貴子内閣広報官の例があったが、与党国会議員や閣僚クラスになると、いつでもいい病院に即入院できる。大物芸能人もそう。
 元々、五輪アスリートにもそのような忖度はあっただろう。平時であれば、表には出ないしそれでも良かったのだ。今回は政府が宣言してしまった点が本当にやばい。「アスリートファースト」という言葉は元々別の意味だったが、すっかり特権階級という意味になってしまった。文化を抑圧し、スポーツだけは優遇することでアスリートヘイトは確実に溜まっている。

 8日の朝、TLを見たら変なことになっていた。「池江璃花子叩き叩き」で埋まっていたのだ。7日の会見での政権批判をかわし、特に「反オリ」を黙らせるための露骨な工作だった。
【兄が電通】池江ツイート、全文投稿前に新聞社が記事化 プロパガンダ確定か?
 池江選手のツイートを受けて、音速で各メディアが記事にしている。テレビも新聞もスポーツを扱う部署がある。最近は大谷翔平の話題で持ちきりである。彼らにとって、いくら政治ニュースで批判しようと、会社全体としては結局オリンピックはやってほしいという本音がよくわかる。

 池江選手の発言は一見「素朴なアスリート」という印象で騙されやすいが、「自分には責任がない」「(開催も中止も)お上に従う」としか言っていない。政権や大会運営、医療体制には一切触れず、あえて内容のないメッセージにしているのだろう。内容がないので、逆にストレートに批判できない狡猾さがある。下手に憶測・邪推で言及すると誹謗中傷になってしまうという罠がある。なので、「逃げ」の姿勢こそを批判すべきだろう。
 家族や友人に愚痴をこぼすのならともかく、このタイミングで公開でこんな発言をする意味は明確だ。
 以下を見ると、戦時中の翼賛報道そっくりである。
池江のニュース記事一覧 - ライブドアニュース
 選手本人に「辞退しろ」とクソリプを投げた者はいたかもしれない。しかしそんなのはごく一部だろうし、少なくとも反オリの総意ではない。それを利用し被害者化&セレクティブ・エネミー。典型的プロパガンダだ。今回の池江選手の発言は、天皇に「お気持ち」を言わせるくらいの効果がある。いや、若い世代にはそれ以上だろう。

 自身の所属が100%電通子会社、兄が電通勤務という時点で以前から噂はあったが、今回で確定した。池江璃花子は、最悪のプロパガンダ女王に闇堕ちした。「池江選手は利用されているだけだ」という声も聞く。しかし、今回の発言のタイミングは明らかにおかしい。仮に電通から依頼を受けてのものだとしても、同情の余地はない。自分の立場をよくわかった上での「仕事」だ。
 こういう声が現役アスリートから出てこないのは残念である。
hochi.news
 いつもなら何も考えずによかったオリンピックで、今回だけアスリートに政治的知見が要求されるのは受難ではある。だが元々世界大戦が起きればオリンピックなどできないし、時間がたてば大会は「天から降ってくるもの」という認識が間違っている。
 政府も池江選手も、正直な本音で勝負してほしい。「身分が違うお前らがガタガタ抜かすな」「医療リソースが減り、結果的に死者が出ても知らん」と。

 これらの指摘も鋭い。プロの仕事感がすごい。

能力主義とスクールカースト、打倒するには「体育」の廃止から

 能力主義について、第二弾。
maoukpp.hatenablog.jp
 スクールカーストについても以前書いた。何歳になっても、高校生までの暗い体験というのは影を落とす。
maoukpp.hatenablog.jp
 この二つは密接に結びついているというかほぼイコールである。サンデルは能力主義是正のために「大学入試のくじ引き」を具体案として挙げているが、もし日本人だったら日本の学校教育について言及したはずである。授業時間以外にも異常に拘束時間が長い、全体主義的な教育を。
 全員参加の組体操、マラソン大会、運動会の行進・ダンス、合唱大会…とにかく日本の教育は苦手な人間まで「全員参加」させる。これによって下手な、足を引っ張る人間は笑われ、スクールカーストができいじめの温床になる。音楽や美術(図工)も実力が露骨に出るが、特にやばいのが体育だ。
 大人の社会を変えたかったら、まずは子供からだ。なぜかというと、学校教育はコントロールが効く。家庭や私企業に入り込むのは人権とかの問題がある。そんな過激な教育政策も人権が? だまらっしゃい。サンデルの共通善をなめるな。
 そこで既に述べた全員参加系行事、教科としては体育、さらに部活を廃止する。部活はあってもいいと思うかもしれないが、放課後の練習というのは特に屋外は目に付く。そこでカッコイイ姿など見せられてみろ、あっという間にカーストが出来上がる。なので廃止だ。異論は認めない。今でもクラブチームで活動している子供は多いが、全て外部に委ねる。体育教師は全員失業だ。外部チームなどで指導をかんばるしかない。吹奏楽部のようなグレーな部活があるので、文化部も同様だ。全廃。せいぜい同好会レベル、序列のできるコンクールや大会は全て廃止。

 この政策がもし案として上がれば、ネット民は喝采するだろう。体育が嫌いな人間の集まりなのだから。能力主義が根絶されれば男の「生きづらさ」もなくなるので、メンズリブなどは解散だ。ほぼ存在意義がない。ネットの非モテ論なども霧散する。女子も能力主義選別をやめ、モテ人気は分散し、公平な恋愛市場ができる。もちろん男も容姿で選り好みしてはいけない。学生のうちから、妥協していく能力が重要である。
 勉強の実力だけであれば、順位やテストの点数を公表しない限り序列は見えないし、そもそも勉強はスクールカーストの要因としては弱い。もちろん能力主義撲滅社会なのだから、勉強ができない人間をバカにしたりいじめてはいけない。
 かくして諸悪の根源、スクールカーストは根絶された。素晴らしいユートピアではないか。来世はこういう社会がいい。

 ……え? 勉強だけでカーストができて自分がおいしい思いがしたい? 成績上位者から好きな女子と付き合える権利をあてがえ? なんということを言うんだ! そんな本音を語ってはいけない!

カラオケ・おぼえていますか

 一般人の、人付き合いとしての「カラオケ文化」が消えつつある。元々ここ10年くらいは世の中的に職場の飲み会で二次会が減少、宴会文化が廃れつつあった。さらにコロナ禍で、大企業では飲み会自体が禁止されて1年以上になる。大々的に「オフ会」などもやりづらくなってしまった。
 大人だけではない。コロナ世代の大学生特に1,2年生は一度も仲間とカラオケに行けてないだろう。大学生なんて一番カラオケ行くタイミングなのに。コロナ世代の大学生はカラオケに行く機会が奪われたまま青春を終えるので、将来の需要も減る。これはボイトレ業界にも影響するだろう。そしてこの先、カラオケ好きは高齢者ばかりとなる。
 ボイトレ記事・動画によくある「カラオケでモテる」という発想がもう古いのだ。カラオケに行ける時点でもうモテているというか、元から仲のいい相手としか行かないんだから。

 サンプル数は少ないが、アンケートを取ってみた。


 私のフォロワーは音楽好きがわりといるので、予想通り見事な二極化。ヒトカラーや音楽好きは行くが、私もヒトカラ以外で最後に行ったのいつだろうと思ったら1年以上前だった。本当にカラオケの機会が減っている。

 カラオケが減っているのは音楽事情にも原因がある。最近のカラオケランキングにも、しっかり新曲が入っているよという記事。
enjoysing.com
 この記事では月間と年間との比較だが、大筋で同じだった。参考までにDAMJOYSOUNDの2020年間ランキングを貼っておく。
カラオケランキング(DAM・総合・年間)|カラオケ曲検索のDAM CHANNEL
2020年JOYSOUNDカラオケ年間ランキング|JOYSOUND.com

 だがこれが、多くの人が親しみやすい楽曲かと言えば違う。2020年3月のものまね特番で、みちょぱ「一般人の髭男はひどい」と言っていたがこれは今時のカラオケあるあるだろう。歌えるわけがないのだ。そこら辺の男が髭男やKing Gnuなんて(むしろ女性向き)。2019年の紅白が象徴的だったが、音楽とは聴くものになり、歌うものではなくなってしまった。普通の男が歌えるヒット曲がない。キーが高いだけでなく、楽曲がどんどん高度に、難しくなっている。歌える人であっても、1曲練習して覚えるコストが相当高い。
 カラオケはそもそも二次利用だから、音楽業界に不満を言ってもしょうがない。時代の流れなので、受け入れるしかない。新曲という主力コンテンツが逆風なのはまずい状況だが。

 歌える曲がない人のことを「カラオケ難民」と呼んでいるが、ますます増えるだろう。対策として、ランキング入りするような新曲はもう、諦めよう。幸い、カラオケ楽曲は膨大なアーカイブがあり、新曲ばかりがカラオケではない。
 カラオケ端末では今でも様々な、たとえば「90年代」などの楽曲特集があるが、もっと「発掘」しやすく、さらに課題として「知らない曲をイチからカラオケ店で聴いて覚える」ための工夫が必要だ(現状だとガイドメロディ、ガイドボーカル入りの音源を流すしかない)。

 コロナ報道によるリンチに遭い、カラオケ業界は苦境にある。この記事によると2020年のカラオケ市場は半減したそうだ。今年もGWの休業があり、似たような業績になるだろう。
prtimes.jp
 最近のカラオケ店は「歌わないカラオケ」需要へシフトしていて、会議室、テレワーク、DVD鑑賞など「個室の飲食店」として頑張っている。この辺はランキング記事のカラオケ評論家が詳しいので深入りはしないが。

 まとめると今カラオケは音楽事情、宴会事情、そしてコロナにより一般人が遠のいてしまい、危機的状況にある。「誰でも歌える曲を、大勢で歌って楽しむ」ことを人類は忘れてしまいつつある。覚えていますか、歌の楽しさを。最後に歌ったのはいつですか。何を歌いましたか。
 この記事のタイトルは言うまでもなくあの曲のパクリだが、楽曲でもテキストでもなんでも、そういう仕掛けが必要な時期だと思う。カラオケメーカーはオーディションや大会ばかりやっている場合ではない。ガチ勢・歌うまは放っておけ、大衆・一般人をなんとかして呼び戻すんだ。
 コロナが終わっても、なんとなく感染症が怖いイメージは残ってしまうだろう。カラオケ業界の深傷が癒えるのはいつになるか。メンタルを病みやすいこの状況こそカラオケが有効、ヒトカラなら感染リスクも低いのでおすすめである。未経験の人はデビューしよう。

能力主義へのスタンスはその人間の素性を丸裸にする

 サンデルの新著で、能力主義が話題である。レビューは以下に詳しい。
davitrice.hatenadiary.jp
『これから「正義」の話をしよう』でも能力主義は批判していたし、10年たってサンデルがこの方向に行ったのは自然に思える。たしかに結論部分があっさりしすぎで(書店で確認して驚いた)、このレビューに限らずよく耳にする「問題提起・批判で終わっている」という指摘は妥当なものだろう。とはいえ買って全部読んだわけではないので、本書については深入りしない。自分で考えてみる。

 いわゆる勝ち組、高年収の人間ほど能力主義を肯定する。そして逆なら否定、敗者に同情的になる。サンデルのような社会的には十分勝ち組の学者が否定できるところに、尊さがある。凡人はこうはいかない。ただのポジショントークにしかならない。
 ここまでは当たり前だが、年齢・将来性も大きく関わる。10代、20代の人間はまだまだ尖っているし、野心・夢があるので肯定しやすいだろう。上野千鶴子の東大スピーチは多くの学生がムッとしたに違いない。若いうちに最大限努力して、成功を目指すことはいいことだ。
 だが一方、枯れてくるというか自分の限界が見えてくる40代以降になると、諦めが出てくる。多くの人間は中年になり「敗者が確定」する。その際に大切なのは、ルサンチマンをこじらせずに、折り合いをつけていくことだ。自分が惨めな思いをしないためにも、上を見ることは諦め、能力主義からは距離を置く必要が出てくる。

 私はというと、本業(IT技術者)でもネットの言論でも、たいした結果を残せていない。完全に負け組である。一方で、それなりの年収は得ているし、ありがたいことにコロナ不況下でも仕事を続けられている。平々凡々、という立場だ。だから「勝者は傲慢に、敗者は憎悪を」と否定的になるサンデルの主張もわかるし、今自分が仕事できているのも、運・環境が大きいという自覚もある。
 もうだいぶ前だが、ネットで知り合ったある若手の同業者に、こんなことを言われたことがある。

「ケープラさんって、『すごい技術者』ではないじゃないですか」

「お前、10年以上やってる先輩に…」と私はその時ムッとしたのだった。彼と一緒に仕事をしたわけでもないし、単純にナメられていただけだったと思う。どちらにしろ悪意はなかっただろうし、この時の文脈は「本とか出してるような、すごいIT業界の有名人」という意味だった。その点ではたしかに、間違っていない。
 しかし私は、この一言が今でも忘れられない。この先もずっと「すごい人」にはなれないんだろうという敗北感がある。
 恋愛も能力主義である。「すごい人」になれないままただ老けていくオッサンなど、モテないままだ。それを受け入れて、引き受けてこの先の人生をやっていくしかない。
 だから、今回のサンデル本に否定的な人は、勝ち組か、まだ若い=勝てると思ってるかなのである。そうでない人は、たしかになあと唸ってしまう。ネットは基本的に匿名だが、今回のような能力主義への言及で、そいつの価値観と人生がある程度わかってしまう。勝ち組であっても落ちこぼれた経験や、挫折経験があるかも大きい。単純に謙虚か、他者へのやさしさがあるかも。既婚か、恋人がいるかも関係するだろう。

 このレビューでは直接触れていないが、『鉄人兵団』もそういう映画だった。競争社会が行きすぎた結果、恐ろしい集団になってしまったメカトピア星のロボットたち。
maoukpp.hatenablog.jp
 前回記事で酷評した『新恐竜』も、ネオリベ能力主義まっしぐらの映画だった。
 じゃあ共産主義ならいいのかというと、もちろんそんなこともない。人間はその時々、年齢や立場で、能力主義へのスタンスを変えながら生きていくしかないのだろう。若い時から能力主義を否定していたら何も頑張れない人間になってしまうが、いい歳になってそのままだとしんどいことが増えてくる。後進の指導もシバキ一辺倒になってしまう。

 まとめは特にないが、「能力主義に不用意に言及すると身バレするので気を付けよう」となる。

『のび太の新恐竜』は評判通り、最低のポピュリズム映画だった

 ドラ映画評論家として、一応観たので記録。シリーズものとしてはこの記事の続きである。
maoukpp.hatenablog.jp

kagehinata-movie.comorangestar.hatenadiary.jp
 上記記事で既に批判されている通り、致命的に誤っている「鳥」の進化の歴史。「進化・淘汰」を「個体の頑張り・適応」に曲解し単なる優生思想、ダーウィニズムにしてしまっている。お涙頂戴の「逆上がり」…エモを最優先する糸井重里メソッド。
 脚本家・川村元気の無教養ぶり*1が致命的にならなかった『宝島』の方がまだマシで、できもしない進化というテーマを入れたため整合性皆無のツギハギになっている。
「エモ」については最近炎上が相次ぎ、批判はこのツリーに詳しい。この手のやり口と決別しないと、人類に先はない気がする。政治だけでなく文化もポピュリズムの雲に覆われたままだ。

 上記記事の批判ともかぶるが以下は試聴時のメモ。CG技術と主題歌以外は、全て脚本・演出の問題である。

  • 冒頭の恐竜展でキャッキャしてるしずかに違和感。「いつもの4人で行動する、登場させる」という構造ありきで、本来の女の子らしいキャラを無視している
  • ミューとキューとの出会い、「生き物を飼うには責任が…」と言ってたドラえもんまで赤面して「可愛い〜」ってなるのはおかしい
  • ミューとキューの表情が豊かすぎる。ポケモン
  • 探検隊コスプレセットは演出上の都合。テキオー灯を使えばいいはず
  • CGの恐竜が作画とミスマッチ
  • 問題の特訓シーンの動機となる、キューが群れの仲間から初見で虐げられる理由が無理矢理すぎる。「小さい、飛べない」だけでいじめられるのなら、子供はどうなる。色や形が極端に違ったらいじめられるかもしれないが、それだと特訓につながらないからというご都合主義
  • しずかが全体的に空気で、ほぼいる意味がない。落ち込んだのび太のケア要員でしかない。とってつけた結婚直前エピソード時のしずかパパのセリフのコピーは失笑
  • TP(タイムパトロール)の行動が意味不明。歴史改変が成功してしまった場合、その人間には手出しできない?完全犯罪ルートという後味の悪さ。絶滅回避という展開自体は旧シリーズの『のび太と竜の騎士』に似ているが、直接TPを出してしまったことでシナリオが破綻している
  • 思い入れがあるためか、ミスチルはやはりドラえもんと合ってない

 改めて、恐ろしい話だった。「劣った人間は努力して成功すべき」というストーリーはアメリカ映画的で、ドラえもんの根本を覆している。のび太の恐竜2006』を簒奪し、ドラえもんそのものも簒奪している。二重の簒奪であり、重罪だ。
『宝島』の体質、そして既にあった批判から観れば腹が立つことはわかっていたが、やはり、だ。二度とこの監督・脚本コンビは見たくない。ドラえもんには関わらず、よそでネオリベシバキなサクセスストーリーを作ってほしい。
 いつものランク付けをすると、
ドラ映画らしさ:E 子供向け:C 大人向け:F
『宝島』同様あざとさ・口当たりのよさは健在で、何も考えずに子供が見る分には楽しめるだろう。だからこそ、ポピュリズムで危険なのだが。

 この映画を一文で要約すると、キューというポケモンのび太がレベル15まで育て「進化*2」させ、「ひこうタイプ」がつきました。となる。恐竜の話でもないし進化の話でもない。そう、『新恐竜』はポケモン映画だったのだ…。

おまけ:

*1:『君の名は。』『世界から猫が消えたなら』などを生み出した川村元気の物語の作り方<『映画ドラえもん のび太の新恐竜』特別インタビュー> | ドラえもん | インタビュー | ニュース | テレビドガッチ 【多様性って「弱者と共存しましょう」みたいな話になりがちな気がして違和感があったんです。恐竜や生物の歴史などを調べていくと、多様性というのは綺麗事ではなく、生物がサバイブするための必須条件だということがわかるんです】 →生物の進化(自然淘汰・適者生存)の話と多様性の尊重は全然別の話、むしろ逆で絶滅危機動物を保護するのが多様性で、自然に任せて絶滅させることじゃない。クリエイター系にありがちな薄っぺらいネオリベ野郎と言えよう。さらに、 綺麗事ではないダイバーシティを、エンターテインメントとして描く/川村元気 | 映画ドラえもん のび太の新恐竜 | Harumari TOKYO【「多様性」というものがなんとなく「弱いものを大事にしよう」という風に勘違いされている気もする。何億年の恐竜史や生物史を見ていると、弱者であるとか変わっているとか突然変異種とかっていうものが、実は進化の第一歩であることがよくある】→パラスポーツにも触れているが、弱者でも「すごい」「感動する」し、長い目で見れば進化的に「役に立つ」から認めよう、という恐ろしいダーウィニズムである。「多様性の尊重」を全く理解しておらず、本当の意味で尊重する気もないのだろう。

*2:進化 - ポケモンWiki

飲み会はなぜ楽しいのか

 一応コロナ禍シリーズだが、脱線的エッセイ。「会食」は仕事のニュアンスが強いが、だいたい似た価値観を持つ者同士の飲み会は楽しい。インターネッツの論調とは真逆の結論になるが、話を進める。
 飲み会は楽しい。IT業界の場合基本的にオタクしかいないので、私は職場での飲み会も全く苦ではない。むしろ楽しい。毎月はちょっと多いが、隔月くらいでやるのが望ましい。もう1年以上やれていないのだが。


 陰キャもコミュ障も、本当は飲み会が好きなのである。ネットで飲み会嫌いが主流なのは「自分が下の立場で嫌な思いをする」、または「ものすごく嫌な先輩や上司の相手をするのが嫌」なだけであって、苦手な人間を排除したメンツなら好きなのだ。それすら嫌だとしても、4人くらいの気心の知れたメンツだけなら嫌じゃないはずだ。
 人間は社会的動物だ。よっぽどの人見知りや人間嫌いでなければ、飲み会は楽しい。
 しかし、よく考えたら不思議である。メンツの中にサシで飲みに行ったり、連絡先を交換しているような仲のいい人間がいなくても職場のサークルや飲み会は楽しいのである。つまり、大勢でワイワイすること自体が楽しいのだ。
 こんな当たり前のことは、逆に1年もの自粛がなければ気づけなかった。「『面倒くさいな』と思いながらも行けばそれなりに楽しい」、それが私の今までの飲み会の認識だった。

 シミュレーション系ゲームの戦闘で「包囲効果」というものがある。マス目の上で敵を囲むユニットが多いほど、攻撃力が上がったり有利になるというものだ。これに似た「人数による相乗効果、増幅効果」が飲み会にはある。
 8人くらいが上限・頭打ちにはなるだろうが、飲み会に限らず集団での会話には乗数効果、「1.2の人数の累乗」くらいの増幅効果がある気がする。サシで飲んでも1.44だが、8人だと1.2の8乗で4.23になる(四捨五入)。4人で2.07。これに各メンバーとの元々の親密度(仲のいい関係なら2.0を超える)が掛け算されていくので、完全に可もなく不可もない、好きでも嫌いでもない「1.0」の人間ばかりであったとしても前述の数字で飲み会は楽しい。親密であれば、さらに火力は上がっていく。
 つまり、公式化すると、

自分以外の各メンバーとの親密度(嫌いなら1未満)をそれぞれ掛け算 × 1.2n(n=自分含む人数、上限8) > 1.0 なら楽しい飲み会

 これを飲み会に限らず「集団乗数効果と言う。私が。もちろん飲み会の場で喧嘩になることはあるし、楽しさは保証されない。あくまで理論値である。嫌いな人間が多いと集団乗数効果をもってしても計算結果が1を割ってしまう。それが苦痛な飲み会の正体である(大嫌いな人間が一人いて0.1とすると、8人でも0.42)。計算結果がちょうど1の場合、不快ではないものの時間を無駄にしたことになり感想としては「つまらなかった」となるだろう。
 人数が多い方が人数の乗数効果は上がり理論上は楽しいが、その分嫌いな(親密度が低い)人間が混じってくるリスクがある。なので結局、4人くらいの飲み会が手堅くはある。

 なんとなく集団で「盛り上がる」楽しさというものを数値化、モデル化してみた。しかしこれは要注意でもある。一種のドーピングであり、本来の親密度を勘違いしてしまう可能性がある。飲み会で話せた異性を好きになってしまったり。なのであくまで、その場限りのものとして楽しむべきだろう。

 実際には、この1.2という数字も個人差があるだろう。オンライン飲み会がつまらないと言われるのはこの人数乗数効果が下がってしまうからで、その下がり具合も人によるだろう。やはりその場の空気・雰囲気の共有は大きくて、「会話の中身・情報」だけで楽しくないとオンライン飲みは辛い。

ファシズム再来—小池ロックダウンに軍靴の足音を聞く

 去年のGWと同じ悪夢再来、という事態である。飲食店だけでなく、各業界で嘆きの声が広がっている。国の緊急事態宣言でもあるが、今回の東京封鎖を「小池ロックダウン」と呼称したい。
 この記事の続きになる。
maoukpp.hatenablog.jp
 既に批判されている通り、小池ロックダウンの問題点は以下。

  • 「酒を禁止する」で飲食店への休業要請ではないという卑劣さ
  • 公園まで閉鎖する無意味さ
  • 灯火管制までする異常さ
  • 金曜日に決定→日曜開始という速さ
  • 相変わらず、何一つ具体的な数値目標・解除条件を提示しない
  • 5/11までという期間も全く信用できない
  • 以下の記事にもあるが、大阪に遅れたくないだけの時期尚早さ

www.nikkan-gendai.com

  • 変異株は若者・子供にも危険だとしながら全体的に第1回の宣言よりも弱く、一般家庭の反発を恐れ学校は休校にしない不徹底ぶり【4/26追記】

www.nikkei.com

 東京都民は最悪のタイミングで、恐ろしい人間に権力を与えてしまった。。結局この国はサヨクが恐れていた戦争なんて状態ではなく、テロですらなく、こんな形でファシズムが再来したわけだ。
 私が学生の時、「戦争が起きて君たちが徴兵される」とかサヨク教師・大学講師は言っていたが、そんなことはなかった。事態はもっと巧妙に、そして突然変化した。「軍靴の足音」という表現がマッチする時代に、まさか自分が生きることになるとは……。
www.nikkei.com
 以前から国や都と全面抗争しているグローバルダイニング社など、従わない店もある。浅草演芸ホールなど都内の演芸場も継続を決めた(【4/29追記 改めて都から恫喝され、5/1から休業】)。全力で応援したい。

 思い起こせば国と都、そして報道による戦犯探し、袋叩きはここ1年ずっと続いている。
 サーファー→パチンコ店→夜の街(水商売だが広義には飲食店)→飲食店ときて、風俗店への給付金なし判決も記憶に新しい。
 報道レベルでは舞台演劇が最初叩かれ、今はカラオケ業界が苦境に立たされている(クラスタを出した「カラオケ喫茶」とカラオケボックスは無関係なのだが)。まさに去年は文化的に「失われた2020年」で、多くの飲食店、音楽・演劇関係者が散っていった。
 実際は人が集まる職場・学校、濃厚接触する家庭・医療施設での感染が多いのだが、なぜか特定の業種・属性が狙い撃ちにされる。
 この手の偏見がどれくらい無意味か、一つ挙げてみよう。以下は昨日私が思いついた偏見である。

・大阪・兵庫で感染が増えているのはここ1ヶ月、3月末から。時期的にプロ野球のシーズン開幕と一致する
・兵庫には甲子園球場があり、春の甲子園大会もあった。大阪には阪神ファンが多い
・今シーズンは阪神が好調で、ファンは盛り上がっている
以上から大阪・兵庫で感染を広げているのは阪神ファンである。飲食店・家庭などの場所よりも、「阪神ファン」という属性が重要である

 あとはそれっぽくデータを貼り付ければ、偏見・差別の一丁あがりである。また「東京・大阪を新幹線で頻繁に往復しているのは芸人・タレントなどの芸能人が多い。彼らが東京に持ち込んでいる」とか危機を煽ることも可能だ。こちらは多少現実味もあるし芸能メディアが絶対に言及しない、自分たちは一切自粛しない芸能界の不公平さはあるが、「阪神ファン・甲子園クラスタ」は与太話なので信じてはいけない。

 話を戻す。私はずっと反自粛だったし、このようなロックダウンには断固として反対する。なぜか。
 陰キャにはあまり実感がないが、古来から「謹慎」というのは人の感情に逆行した状態の罰なのである。自粛を強いるばかりの国や都のやり方は、他責かつ国民の人権軽視というほかない。経済も大事だしそれにも関連するが、根本的に大切なのは国民の「行動の自由」である。
「批判するなら対案を出せ」と言われそうなので、自粛をやるとなった場合の私の考えを一応書いておく。

 どうしても飲食店の時短をやるなら、22時。これが常識的な線というものだ。それ以上を求めるなら補償付きの休業要請となる。
 飲食店や商業施設に休業要請をするのなら、まず家賃だけでも全額補償する。家賃ならいくら払っているか極めて明確だし、公平だからだ。次に電話・ネットや光熱費などの固定費を一律で(これは1-2万円程度でいい)。売上に応じた給付金などはその後。

 今回の小池ロックダウンがさらにまずいのは、このツイの引用元のように、現状追認する声が多いことだ。こういう従順な国民こそが、ファシズムの構成員である。


 戦時中もTwitterがあったらこんなだったと思う。物や食料がなくなっても、空襲が来ても「支離滅裂でもアメリカに勝つためには、お国のためにはやむを得ない」とかこの手の人たちは言うのだろう。
 メディアが不安・危機を煽り、声を上げる、怒ることができなくなってしまった国民たち。それをいいことにファシズムに走る政治。マクロな歴史で見たら、今はなんやかんや太平の世の中。後世の日本史の教科書的には「どうでもいい時代」だとずっと思っていた。

 だが、本当に今こそが、この国に限らず民主政治の危機なのではないか。まっとうに「怒る」国民性が死滅したら、民主政治は終わりである。今はもしかして「専制政治への回帰」というフェーズなのかもしれない。
 後世から「この時代の愚かな人類には、民主政治はまだ早かったのです」と総括されそう。いいのかそんなんで。いいわけがない。歴史上の恥さらしには、なりたくない。