うたうポリゴン

魔王K++(ケープラ)のポータル兼個人ブログ

「若者に対応できる俺」でありたい欲求はどこから来るのか

maoukpp.hatenablog.jp
 以前、若者(一回り以上年下の相手を「若者」とする)について記事を書いた。続編というか、少し角度を変えた話をしたい。

 この間、学生時代からの古い友人と飲んだのだが、そこで「若者(40過ぎた私たちにとって「20代」は十分若者である)対応が俺はできている」、「いやそれくらい俺だってできるぜ」、というようなやりとりがあった。管理職でなくても、指導的な立場になるお年頃。社会人としてまっとうなのは、若者対応ができることだ。若者と会話できるネタ、手札の数や質を競い合う、とても男らしいマウントの取り合いだったと思う(かつてこの手のものには批判的だったが、男女問わず競争社会に生きる者としてそれはあっていい)。そして、こういう話を同年代の友人をするようになったんだなと、ふと自分の年齢をしみじみ感じた。
 若手の頃に「上の年代と仲良く会話できる俺」などと自慢したことはないし、そんな奴もあまりいないだろう。それはただ上に媚びてるだけだとバカにされるだけだ。しかし、若者対応はそうはならないどころか逆である。40代以上にとって、「若者対応できる」は人望や親しみやすさといった能力、仕事ができるかにも関わる、ステータスなのだ。

 そして、「若者対応できる俺」≒「時代についていける俺」でもあるのだ。実際のところ世の中のトレンドが若者中心であるかは怪しいが、なんとなく時代=若者という空気は今でもあるし、「時代に取り残されるオッサン」は政治的なイデオロギーを問わず哀れな存在として扱われる。
 さらにプラスして、上記記事でも触れたが、生理的な欲求でもあるのだと思う。だんだん昔から知っていた有名人の訃報が増えてくるし、さらにいずれは同年代も死んでいく中、下の世代には媚びたくなるものなのだ。若者に媚びることは悪いことなのか。相手に合わせる、寄せていく、努力することはコミュニケーションの基本だ。管理職デビューしたオッサンはいつだってビジネス本で部下=若者の扱い方の勉強をする。年長者としての威厳は保ちつつ、無理のない範囲で仲良くするのであればいいだろう。

 また、生理的欲求で言えばオッサンにとって、男の若者はどうでもいいがオネーチャン(死語)にはモテたいというか、会話くらいは普通にできる男でありたいという心理はあまねく存在する。オネーチャン対応をがんばっていたら、意外と男の若者とも話せるようになっていたというオッサンも多いだろう(私は違う)。オッサンは美容や健康に気を遣い出すお年頃なので、それが意外とオネーチャン対応にもなり一石二鳥だったオッサンも多いだろう(私は違う)。情けは人の為ならずというか、若者に媚びるのも結局は自分のためなのだ。
 まとまりがなくなったが、そんなわけでこれからも私は若者対応をがんばっていきたい。清純な動機で。