一体なんの関係が、と思うかもしれない。厳密には「リング禍」と呼ばれる死亡(または深刻な後遺症)事故が起きる「KOを目的とする格闘技全般」なのだが、ここでは(プロ)ボクシングのみとする。
まずこちらを読んでほしい。
リバタリアニズム
これによると、ギャンブル、麻薬、拳銃、売春、ボクシングすべてOKとするのがリバタリアニズムだというのだ。当然人によって程度が違うが、リバタリアンを定義する時にとてもわかりやすい。
なぜボクシングが問題なのかについては、
ボクシング存廃論
ここで詳細は触れないが、野球の投手の球数制限のように、安全面でのスポーツのルール改正論はいつだってリベラル(人権尊重)の観点から起きるものだ。私は『はじめの一歩』が大好きだが、たしかにこの批判には一理ある。リベラルで格闘技の大ファンってあまりいない気がするし、逆に大ファンはネトウヨが多そう(偏見)。
タイトルの内容は実はこれで終わりで、ここからが本題。以前NMRという概念を書いたが、これに関連する話をしたい。
maoukpp.hatenablog.jp
ネットに比較的多い「自称リバタリアン」「なんちゃってリバタリアン」について考察する。インターネットアンチフェミ(弱者男性論、表現の自由戦士、ネトウヨ)批判シリーズの続きで、特に表現の自由戦士に多く見られる。
なぜか。
- 文系の中で経済学部は一番人気であり、人数が多い(専門の大学も多い)
- 経済学や政治思想の知識がなくても(一見)わかりやすく、誰でも飛びつきやすい
- 論理的・合理的な新しい思想っぽいものになっている
- 増税、社会保障負担増反対と結びつきやすい
あたりだろうが、端的に言うとバカがカッコつけるための思想もどきになっている。どうもここ10年くらいのトレンドらしい。単なる情弱バカか、「俺は経済学んだんだぞ!」のイキリ経済学部卒(レジャーランド時代の大学)バカの二つに大別される。
彼らの理想はこれ。
おっしゃる通りで、連中の考えを敷衍すると人権にランクをつけオタク特権階級を作りたいだけ。そのくせリバタリアン的小さい政府志向だったりするので完全に破綻しており、思想なんてものはないただのクズとわかります。 https://t.co/9QxB8mIDIO
— ケープラ K++@壺を割る会 (@maoukpp) 2019年4月25日
繰り返すが彼らは全くリバタリアンではなく、無覚悟・無責任な自由主義者、エゴイスト、端的に言うとただのクズである。リバタリアニズムを方便・隠れ蓑にしているだけ。
フェミニズムのイメージが一部のフェミニストのせいで毀損されているという声はよく聞くし実際そうなのだろうが、リバタリアンもそれに負けず劣らずである。でもなぜか「指導者・上層部はしっかりしろ」みたいな批判は見られない。
政治的スペクトル - Wikipedia
このノーラン・チャートで言う「ポピュリズム、全体主義」で真逆の思想なのだが、よくもまあ恥ずかしくないなと。
私の主張はほぼこれで終わりなのだが、補強のため「日本の自称リバタリアン」についての記事をいくつか紹介する。
blogos.com
イケハヤやホリエモンなどのネットの有名人はリバタリアンと言われており、この辺の影響も大きそう。ある程度の地位・名誉を築いた人なら社会基盤がなくなってもやっていけるし、その方がライバルも減って都合がいい。
さらに新しいことをやるのに余計な規制はない方がいいし、批判されたくない。税金たくさん払うのも嫌だ。「強者」に都合がよく、実に自分勝手・無責任な考え方をする人たちである。
blog.goo.ne.jp
dr-seton.hatenablog.com
続)自分は自分の自由が侵されない限り他の国民のことなど一切どうでもいいが、社会は自分の自由を満たすために回っていてくれないと困る。ここから「国家への無限の依頼心」も生まれ、キメラで自己矛盾な「愛国的リバタリアン」が生まれる。
— 田川 滋 TAGAWA Shigeru 타가와 시게루 (@kakitama) 2017年8月22日
田川さんの言う通り都合のいいところだけをつまみ食いしているので、キメラ・リバタリアンと呼んでもいいかもしれない。
blog.tatsuru.com
愛国的リバタリアンという矛盾するワードはとても秀逸。
”愛国的リバタリアン”とはそもそも自己矛盾語なのだが、その認識には
— 田川 滋 TAGAWA Shigeru 타가와 시게루 (@kakitama) 2018年11月4日
「国」と「私」(+直接の知り合い)があって「公共」がない。
「公共」にいる社会の第三者は自分とは関係ない存在で、自分の邪魔にならない様に「国」がなんとかしろ、と言う以上の意識は無いわけですね。
ネットで暴れているインターネットアンチフェミは前々から「公共の福祉」「公と私」概念がないなと思っていたが、なるほど「国家と私」だけがあってその中間がないのだ、と考えれば腑に落ちる。
要は自分とその所属する界隈がすべてであり、「俺の人権は俺のもの、お前(他者)の人権は俺が認める範囲だけ。現行以上の拡大は認めない」という人権ジャイアニズムなのだ。
だいたい、表現イベントなどにフェミニストが抗議する自由もリバタリアンなら認めなければいけないし、その結果自粛したとしても個人や企業の自由ではないか。「女に文句を言われたくない思想」なるものは女性蔑視、ミソジニーって言うんじゃなかったっけ。
余談ながら、リバタリアニズムにそのものに詳しくはないが見解を述べておくと、一見合理的で公平に見える最小政府国家だが、共産主義に似た危うさ、人類の不向きさがあると思う。刑事罰の凶悪犯罪しか取り締まられず、民事とか何それってなりそう。結果的に人権軽視社会になるだろう。その点では自称リバタリアンの理想通りなのかもしれないが。結局はその人が目指す国家モデルを聞いてみないとなんとも言えない。日本人の場合、皇室についてどう考えるのかも興味深い(ただの皇室ファン存続派は論外)。
改めて繰り返すが、ネットに多い愛国的リバタリアン、キメラ・リバタリアンは思想と呼べたものではなく、論外のクズである。これはリバタリアニズムの名誉のためにも、強調しておきたい。思想はクズの箔付けのためにあるのではない。