うたうポリゴン

魔王K++(ケープラ)のポータル兼個人ブログ

反差別ユートピア系左翼を「PAAA」と呼称したい

 参考過去記事。
maoukpp.hatenablog.jpmaoukpp.hatenablog.jp

 リアルタイムな政治思想シリーズの続きでもある。広義なインターネットアンチフェミ (IAF)、maoukpp.hatenablog.jp
 その中の一翼・表現の自由戦士系に多いキメラ・リバタリアン (CLT)、maoukpp.hatenablog.jp
 IAFにも含まれるがより黒幕・冷笑的なNMR(ノンポリで中道なリアリスト)、maoukpp.hatenablog.jp
 女性のアンチフェミ 、バッドフェミ(BF)という分類・概念をこれまでも提唱したことがあった。maoukpp.hatenablog.jp

古典的リベラリズムvsネオポストモダニズム

 個人の権利や自由を最優先する、という意味では私も「リベラル」である。案件次第では保守になることもあるが、大筋でリベラルである。それは、マクロにより多くの人の自由と権利を守ろうと考えるゆえだ。だが、これはもはや「リベラル」の多数派でもなく、どうも私が嫌いなタイプが多く、馬が合わない。人格的な問題? いや、それだけではない違いがたしかにある。
 それはある程度わかっていたが、根底はなんだろうとここ数年ずっと気にはなっていた。その答えがこの記事にあった。
liberalartsblog.hatenablog.com
 そう、「古典的リベラリズムvs(応用・再帰的)ポストモダニズム」という対立軸があったのだ。どちらもまとめて「リベラル」と括られがちな陣営の中に、明確な対立軸があった(後者を本記事では「ネオポストモダニズム」と呼ぶ)。
 実際、こちらの記事の「タイプ分け」ではどちらも同じ「リベラル」になってしまう(再定義が必要かも)。
maoukpp.hatenablog.jp
 フェミニズムの中でもトランス女性をめぐって内部対立があったりするが、もっと大きな括りの対立。旧来の大発明であった「サヨク」(by小林よしのり)や単なる「人権派」という概念は通用しなくなってきている。加害者の人権を擁護するのも、古典的リベラリズムだ。
 今回の記事は上記記事と、それに出てきた『反逆の神話』をベースとしている。

 公式で無料で読める、文庫版解説が素晴らしい(本書の序文もここから読める)。
www.hayakawabooks.com

 だがもう一つ、いい参考文献がある。

 この本は教科書的に男性学含むジェンダー論をよくまとめていて、圧の強くない教科書的な文体だからこそ、逆に異様な前提だったり飛躍がありありとわかる良書。サブカル評論の部分は杉田さんのコラムとして楽しめ、あとはジェンダー・反差別の教科書としてとてもよくまとまっている。ネオポストモダニズムの教科書と言ってもいい(私は『ドラえもん論』を記事で紹介したり杉田さんのサブカル評論は好きだが、近年専門誌を出したり反差別の方向に行ってしまったのはとても残念に思っている)。

「ネオポス」な人たちの特徴

 さて、そんな彼ら

  • マイノリティ、被差別、被抑圧者の人権が第一。差別加害者に人権は(一生)ない
  • 政治・政策嫌い
  • 既存のルールは壊すが、一切作らない

 という性向を持つ人間が今や一大勢力となっている。もっとも「政治・政策嫌い」はアンチフェミとも政策レベルの議論ができた試しはなく、これだけは陣営問わずネット言論共通の特徴と言えるかもしれない。
 既にアンチフェミ ・アンチリベラルから「ポリコレリベラル」「リベサヨ」「パヨク」「反差別界隈」「(ツイ)フェミ」「LGBT界隈」などと呼ばれてたりはするが、もっと厳密に定義したかった。私はフェミニズムを全否定はしていなくて規範レベルでは正しいと思ってるし、実践でもたとえば以下の記事のように公共領域での萌え絵などのエロ(ソフトポルノ)には反対で、フェミニズムに賛同している。
maoukpp.hatenablog.jp
 だが、呉座先生のように正規雇用=准教授まで奪われる事態には反対である。いうまでもなく彼の過去の発言を肯定するわけではなく、停職1ヶ月という処分で十分償ったという意見。
ygoza.hatenablog.com
 なので、アンフェ論客とつるんでネット炎上、その後のNHK大河ドラマ降板までは私は自業自得だと思っていた。だが、本職クビは行き過ぎ。ついに国内でもキャンセルカルチャーが始まってしまった(IAFはフェミニストによる広告表現への抗議、撤回・差し替えられることをそう呼んでいるが、誤り)。「程度問題」という概念がネット言論ではなかなか通用しないのが嘆かわしい。いま呉座さんの権利を擁護しているのはゴリゴリのアンフェばかりだ。東京03飯塚的に、「ちょうどいい奴いねぇのかよ」状態。

 最近になって東浩紀さんが「Jリベ」というワードを使っている。だが別に日本特有の現象でもないし、もっといい言葉が欲しかった。

 そんな彼らを総称する概念、それはPAAA(読みはピーエーエーエー、またはピーエースリー)である。以下の頭文字から取った。この各要素の複合体が、彼らの正体なのだ。

  1. ネオ(応用・再帰的)ポストモダニズム(ポリコレ・反差別、権威主義) (neo-)Postmodernism
  2. 反資本主義 Anti-capitalism
  3. 新自由主義&反能力主義 Anti-neo-liberalism & Anti-meritocracy
  4. アナーキズム Anarchism

PAAAの詳細

 1.については紹介した記事を参照だが反差別の「特権理論」に少しだけ触れると、たとえば日本に住んでいれば「先進国民特権」、東京に住んでいれば「東京都民特権」で、お前は外部から富を収奪・搾取してる悪人・加害者だと一方的に断罪されたら「はいそうです」と懺悔し続けるのだろうか。いいかげん、反感を買うだけの藁人形論法はやめたらどうだろうか。大卒者はあまねく「大卒特権」で高卒を抑圧している? そんなバカな。
 まずこのネオポストモダニズムが基本としてあり、その根底に2-4がある。なので厳密にはギターの分数コードのようにP/AAAと表記するのが正確だが、わかりやすくPAAAとする。
 2.については反グローバリズムがメインで格差・貧困拡大をとにかく批判しがち、小泉改革などもそう。GAFAが嫌い。それだけなら幅広く存在するが、特徴的なのは左翼的「資本家=搾取=悪」という全く根拠のない概念だ。マルクス主義フェミニズムに限らず、全てを資本家のせいにし、自分たちだけは清廉潔白な労働者or市民だと思っている。マルクス主義のレールがガッチリ敷かれている(マルクス主義について詳しくないが、マルクス本人の考えがどうこうではない。ここで重要なのはイデオロギーとしての「マルクス主義」)。「嫌儲」をこじらせたサヨクにありがちな、反起業家というか金持ちのすべてが気に入らないという価値観が根強い。
 一昔前の「大衆娯楽などすべてくだらん」という保守的なインテリオヤジや、今の若い「家にテレビはありません。鬼滅も一切知りません(キリッ)」の方が反資本主義としては筋が通っているのだが、サブカルを語るPAAAもいて、どうか整合性をつけてから反資本主義をやってほしい。バットマンやアイアンマンは金持ちの社長(さらに白人男性)だが、彼ら的には「悪の資本家」ではないのか?(描かれてないだけで、あの作品世界にはそういうアンチがいる?)。聴覚障害者やゲイもいるマーブルヒーロー映画『エターナルズ』のように、人種・性別その他多様性が今の必須要件なんだろうが、これも大資本(ハリウッド映画などは特に)による作品である。映画に限らず、あらゆる大衆娯楽=サブカルがそう。資本主義がなくなったら多くの娯楽作品たちは出てこなくなって困るだろうに、それでいいのか。
 3.もお決まりパターンで、「全否定はしてない」と彼らは言うだろうが、だいぶ嫌い。運動家や言論人として評価されること、上を目指すことと反能力主義は矛盾しているのだが。特に既に触れたサブカル好きの場合、クリエイターも、演者もスタッフもめちゃくちゃなネオリベ競争社会の中の一握りの勝者たちなのだが、それを礼賛することと反能力主義は矛盾しないのか。都合よく格差を肯定したり否定する二枚舌でしかない。
 また、社会人の給与・待遇面で男女平等が進んだのも新自由主義能力主義な価値観も大きいのに、それはなかったことにし、単純に悪魔化して批判している。経済オンチなのか確信犯なのか、ともかく幼稚というほかない。
 4.は、サヨク全般に見られる反権力・反国家を拡張したもので、ガチで今の政府を潰そうとは思ってなくて本音・理想として持っている。まず「政治・政策嫌い」。議会制民主主義も、実のところ彼らは好きではないのだ(義務的に選挙には行くが)。毎回選挙結果が自分たちの思った通りにならないせいもあるが、生理的に選挙運動や国会政治、政治家というものを嫌悪している。
 彼らの理想はもちろん専制国家でもなく、国家的な共産主義でもない。モデルはこうだ。1000人くらいのインテリ村で、政体としては直接民主制憲法・法律も国家もなく警察もなく、リーダー・指導者もいない村。インフラはボランティアが担当し、善意だけで回るような社会だ。商売は個人商店・工房だけで、大型店や工場=大資本=悪は存在しない。愚かな大衆は存在しない。同じアナーキズムでもリバタリアンが望むそれではなく、幼稚なユートピア思想と言ってもいい。犯罪や争いごとがゼロではないにしろ、全てボランティア裁判員たちの合議による処分で、やらかした人間は大人しくそれに従う。もちろん刑務所なども存在しない。フェミニストが「女だけの街」を夢想するのも、この考えが根底にある。
 ある程度の規模になるとどうしても権力・強制力が発生するのが国家に限らず集団というもの。全ての権力を忌避するのが彼らなので、1000人というモデルがちょうどいいのだ。数千人はいるだろうが、実際彼らの界隈のTwitterというのはエコーチェンバーでそんな感じである。エコチェン自体は右派にもあることだが。

 冒頭に挙げた記事で触れたように男性学メンズリブが「新たな男性規範」を毛嫌いするのも、このアナーキズムを踏襲してるからだ。提示したらいい、男性自身の手で「男らしさ2.0」を。統一見解などは難しいが、女に押し付けられるよりはましだし、叩き台でいい。それが本来の男性学の役割だろうに。
 今でも「モテテク」のようなルールは大衆は好きだし、いざルールが何もなくなったら困惑する人の方が多い。女らしさ・女の役割を全否定して、焼け野原にしてしまったのがフェミニズムと言える。
 彼らはルールを壊すだけで創造ができない。「多様性を認め、差別をやめよう」というスローガンの元、じゃあ違反した人間をどうするか決めないから魔女狩りして公職から追放したり、米山隆一さんに粘着し(てブロックされ)た仁藤夢乃のように一生我々のサンドバッグになれという態度を取る。ちゃんとルールを決めないから、他罰に際限がない。殴り合いの喧嘩をしたことがないから、暴力に歯止めが効かない。岡村隆史の時のように、加害者の人権をないものとする。
 UL悪口DM漏洩事件にしても、「不規則発言をしたら即退場」というルールを作っておきそれを行使してれば、DMでネチネチ悪口を言わずに済んだ(特にオンライン会なら管理者権限でワンクリックでできる)。育ちがいいせいか人間の善性を信じすぎで、教育の力を信じすぎで(性教育にやたら熱心なのもそれ)、誰でも教えれば言うことを聞くと思ってる。そしてどんな凶悪犯でも「幼少期に虐待ガー」とかいうストーリーに回収しがち。映画『ジョーカー』もそうだった。だが、過去に何もなくても小根の腐った、真のクズはいる。あらゆる面で現実が見えておらず、かつ本当の意味で高貴なインテリでもないので、いざ敵が発生するとすぐ暴力の沼に落ちる。
 彼らはなぜルールを壊すだけで作れないのか。それは自分が権力を持つ側、行使する側になることを生理的に嫌悪するから。つまり自分が新たな抑圧者・加害者になりたくない。「パターナリズム大嫌い君」と私は呼んでいるが、他人に何かを押し付けることを100%拒絶する。代表やリーダーではなくファシリテーター()と自称したりするのもそれ。
 呉座先生を糾弾するオープンレターの発起人たちも、解雇という事態になっても「ただ糾弾しただけです」と開き直るか無視。慢性的な無責任人間の集まりと言える。

まとめと余談

 おそらくだが、彼らの大学の専攻は理系か文学系、教育系、分野によるが社会学系(ジェンダー論がその一角のように)が多いだろう。法学、政治学、経済学を多少かじっていれば、ここまで政策・法制度の議論を嫌うことはないはずだから。そして経済学というか経済について無知すぎる。市場の失敗、あるいは企業のガバナンスが失敗することはあるが、「資本主義が諸悪の根源」という子供じみた被害妄想は、大人なら捨ててもらいたい。高校生向けの政治経済教科書や、池上さんの本でも読んでやり直せ。
 特に「資本主義が家父長性、その他あらゆる差別の原因」というのは意味が分からなくて、じゃあ原始時代は家父長性や差別、性役割の押し付けはなかったのか。今ほど資本主義が加速してない昭和前期の方が明らかに女性差別は酷かった。説明がつかない。
 さらに「女性の社会進出も経済界・資本家の陰謀」みたいな話になると、もはや何がしたいのかわからない。専業主婦志向? あるいは国が女を養えと? 大企業で賃金に男女で差をつけるなんてことはありえない。結果として女性の収入が低いのは管理職が少ないこと、そして残業時間が少ない(最初からヘビーな仕事の担当にされない、忙しくなった場合は助けてもらえる)だけだ。
 PAAAに限らずこうしたネット言論における基本的な立ち位置は、 大学で何を学ぶ(あるいは学部を選ぶ時点)か、20代前半までに誰と交流するかである程度決まってしまうのだろう。

 反資本主義について余談になるが、
maoukpp.hatenablog.jp
 お金そのものに対する生理的な「汚れ」意識も根底にあるだろう(PAAAの政治全般への意識はそれに近い)。『ドラえもん』のスネ夫に限らず、昔からフィクションでは金持ちは悪人に描かれることが多かった。だが現実は違う。金持ちの子は基本性格がいいし、まさに「金持ち喧嘩せず」で争いの当事者になることは少ない。
 子供のいじめなんかわかりやすいが、実家が金持ちかどうかは関係なく、金持ちの子がタカられるいじめもある。基本いじめる側でも、スネ夫ジャイアンにボコボコにされることだってある。
 格差や貧困の問題と、差別は直接関係ない。底辺・貧困層が憂さ晴らし、娯楽として差別をしてしまうのはトランプ支持者だったり国内でも今のインセル界隈を見てればわかるが、それは結果論に過ぎない。心が貧しい彼らが宝くじで1000万もらったとして、差別は続けると断言する。たとえ彼女ができたとしても、ネットでの女叩きはやめられないだろう。そして論者側は、たいてい高学歴・高収入だ。

 長々と書いてきたが、今回書いたPAAAが人文系アカデミズムではなぜか支配的で、今後日本でもキャンセルカルチャーが頻発しそうなので抵抗していきたい。これ以上続けてもアンチリベラル・アンチフェミの主張と同じなので終わりにするが、広義の「リベラル」の中にも内部対立があるというのが、今回私が言いたかったことである。
 実際PAAAといっても個体差はあるし(特に加害者の人権あたりは)グレーな人もいるだろうが、一つの括りとして提示したい。そして私の立ち位置は、言うまでもなく反PAAAである。

 さらに余談を続ける。PAAAとは、「脱構築教」「脱構築カルト」と言い換えてもいい。この界隈には、このワードが頻出するからだ。反差別界隈が恣意的に使うそれは、ずっと脱構築しっぱなし、それってもう構築じゃないの? 脱構築脱構築しなきゃ! …というのは冗談にしても彼らは「フェミニズムの教えを脱構築」は決してしないわけで、恣意的な利用、もっと言えばくだらん言葉遊びに過ぎない。結論ありきで、その権威にこじつけたいだけ。哲学的なワードを用いた論法こそ、どんな陣営・立場であっても警戒しなければならない。