うたうポリゴン

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『鬼滅の刃』総評—ブームは過熱か本物か

 以前ふざけた記事を書いたが、その後アニメ2期を全て消化、劇場版アニメも観たのでその感想と、真面目な総評をしたいと思う。
maoukpp.hatenablog.jp
 漫画は読んでいないのでその後完結まで知らないで書くが、劇場版で上位クラスのボスも出てきてラストまでの道筋が見えたというか、全体のテーマは十分に掴めた。本稿では鬼滅の三つの特徴から、本質に迫ろうと思う。

 1年以上前の記事だが、この頃から話題になっていた。
oreno-yuigon.hatenablog.com

 鬼滅に出てくる「鬼」や「悪」から何を読み取るか、鋭い批評は杉田さんのシリーズを読んでもらえればいいし、何も付け加えることはない。
imidas.jp

 劇場版アニメまで観て、原作コミックをまだ8巻分しか消化していないことに驚く。アニオリエピソードを挟んだわけでもない、ダラダラ引き延ばしたわけでもないのに、だ。おそらく連載開始からきっちりと設計されたストーリーで、原作コミックに内容が詰まっている。これが第一の特徴。
 昔の少年漫画は最初はお試し期間で、『るろうに剣心』『幽遊白書』『スラムダンク』などその後人気作となる漫画でも、長編に入る前は1話完結ものをやっていた。助走期間に試行錯誤しながら、ウケるフォーマットが固まっていき徐々に路線変更していく。
 イマドキの少年漫画の傾向なのかもしれないが、鬼滅はそこが圧倒的にすごい。昔のスタイルなら鬼滅は序盤、特に1巻あたりは炭治郎が1話完結の人助け&鬼退治をやってて、そこから過去の回想が始まる構成だったはずだ。
 鬼滅は序盤は暗すぎるし読者アンケート人気が低い時期もあったようだが、炭治郎、ゼンイツ、伊之助の3人組体制になってから安定した。やはり王道要素は必要ということだろう。その後(アニメ化が決まった以降は特に)人気があるからと少年漫画にありがちな引き延ばしもなく、23巻で完結した。潔い、というより、作者としては最初から描きたいものだけを描く。人気があろうがなかろうが関係ない、というスタンスではなかろうか。逆にコンパクトにまとまっているので、これからの人も作品に入りやすくなった。その意味では決して、売上的にも悪くないはずだ。

 さて、劇場版の内容だが、「日輪刀、鬼殺隊、鬼狩り、柱、上弦・下弦の鬼」など用語だけはある程度押さえておく必要はあるが、初心者がいきなり観ても全然大丈夫な構成になっていた。原作通りなのにそこがすごいが、アニメの2クールが決まった時に、最初から「無限列車編」に照準を合わせていたのだろう。
 炭治郎の家族は原作1巻1話でいきなり惨殺されるが、その構成上の理由もわかった。回想シーンのような形で登場する、この劇場版の展開があるからだったのだ。全てにおいて、無駄がない。

 鬼滅のテーマは「鬼」=「悪」を倒すこと、その過程において自己犠牲だったり色々あるがそれは省略し、ともかく大きな柱としてそれがある。鬼は元人間なので、当たり前だが非常に人間臭い。杉田さんの評論にもある通り、鬼の悪=人間の悪である。
 そして、全くカリスマじゃないラスボス・キブツジ無惨には「悪をカッコよくしてはいけない」というポリシーが感じられる。劇場版手前の「パワハラ会議」を美化しているバカもネットには散見されるが、崇拝されるような悪役では全くない設計だ。
 もう一つの柱は家族愛である。劇場版では炭治郎と煉獄の家族が登場し、それが色濃く出ている。「才能ある者は、世のため人のためにそれを使わなければならない。強い者は弱い者を守らねばならない」煉獄家の教えはノブレス・オブリージュだ。これは作品全体のテーマだろう。炭治郎も「長男だから」と食いしばる場面が作品の初期にある。「仲間との絆」よりも「家族・イエ」に比重を置いたことが少年漫画としては珍しく、大ヒットにつながったと思われる。
 鬼滅の世界では、一般人が鬼に一方的に虐げられる「弱い者」として位置付けられている。しかし鬼殺隊は政府非公認組織だし廃刀令違反。人助けをしても、特に大衆から英雄扱いになることもない。給料はそれなりにいいようだが、リスクを考えれば報われない仕事だ(そんな中、異彩を放つサイコロステーキ先輩)。「鬼狩り」の動機はキャラクターそれぞれで違うが、危険を顧みずにやるという気高さ・献身が共通してある。基本的に鬼滅のキャラクターは皆変人揃いになっているが、それは少年漫画的演出で本質ではない。皆任務に関しては真面目な人たちだ。それは、現代の異能者社会人にも共通する。

 楽曲では劇場版の手前、那田蜘蛛山編の挿入歌『竈門炭治郎のうた』がイチオシ。
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 那田蜘蛛山編でもボスの鬼が、配下の鬼を使って偽りの家族を作り、自分は末弟として生活していた(「家族ごっこ」に戦略・戦術上の意味はなく、完全な趣味)。これも人間時代のトラウマ、家族愛に飢えていたがための行動で、ここでも家族愛が裏返しのテーマとなっている。

 勧善懲悪と言えばそうだが、当事者の深刻さ・切実さからお気楽・単純ではない「悪を倒す」と深い家族愛、この二つからくる「まっとうさ・健全さ」が鬼滅第二の特徴であり、本質である。女性人気が高いのもうなずける。作者が女性と言われており(推定)、女性キャラへのセクハラ、男性読者サービス描写といったものが全くないのも安心できるポイント。ジェンダー的にはたしかに、安心して子供にも見せられる。
 少女漫画と少年漫画が完璧な融合を果たした、と言えるかもしれない。鬼滅は「少年ジャンプのバトルもの」という系譜で語られることが多いと思うが、男性作者が圧倒的に多い中かなり異端だと思うし(近年の漫画には疎いので的外れかもしれない)、数々の炎上を起こしてきたジャンプ編集部の体質が変わったわけでもないだろう。その異端児がたまたま女性中心に爆発的にウケ、ここまでのブームになったと推測する。

 鬼滅に散見される思想を根性論とか、シバキとか、マッチョイズムとか、家父長制とか、エリート主義とか批判するのは容易い。しかしそんなものはチェリーピッキングであり、作品を何も理解していないゴミクズである。それらは男女論でしかフィクションを見れなくなってしまった、いや、ものを考えられなくなってしまった「男女論鬼」たちの言説である。日輪刀で首をはねるしかない。

 ところで作者はなぜ鬼滅を大正時代に設定したのだろうか。「鬼は日輪刀で首をはねないと殺せない」という戦闘ルールがあるし、歴史上の人物・事件や設定も出てこないことから、別に大正時代にそれほど強いこだわりはないと思う。機関銃を撃ち込んでも、爆破しても鬼は倒せないんだろう。たぶん。
 その答えは、クリエイターとしては当たり前だが「描きたい世界観とマッチするから」だ。しょうもない批判をかわすためでもあり、かつ現代的な価値観とは距離を置きたい都合もあったろうが、それも作品世界に没入してもらいたいためだ。さらに、チャンバラを主体とする以上、画的にまるっきり現代よりは少し古めの方がいい(鬼滅隊士がスマホ持ってたら興醒めである)が、江戸から明治初期は既存作品・時代劇が数多くある。舞台装置としてある程度近代化していた方がいい、あたりだろう(大正時代の人物によるコンビニコラボはものすごく違和感があったが、それは原作とは関係ないビジネス)。

 やや脱線したが話を戻す。鬼滅最後の特徴、それは厳選された登場人物。wikipediaを見ればわかるが、敵(鬼)も味方(鬼殺隊)も、最小限でまとまっている。無駄な人物が一人もいない。少年漫画では初期に強力なライバル、または先輩格として登場するが、その後どんどん強いキャラが出てきて「かませ犬」扱いになってしまう例は非常に多い。このようなキャラの使い捨て、使い潰しが全くない。名前の難読漢字だけは例外として、キャラクター造形も子供にもわかりやすく、覚えやすい。

 鬼滅ブームはコロナ禍によるステイホームの影響も大きかったと思うし、どうみても小さな子供向けではないのに子供人気に関しては明らかに過剰であったと思う(そもそも「少年漫画」自体がどんどん対象年齢を上げている)。大衆も自らそれに乗っかったというか、「てっとりばやく国民が一体化できるツール」という側面もあった。だが、少年漫画としての実力は確かである。よく「もっと面白い漫画もある!」という声は聞くがそれはまた別の話。
 長々と書いてきたが、劇場版は初心者がいきなりでもおすすめである。2020年はコロナと鬼滅の年だった。来年は何が来るのか。アニメ化はまだ控えているし、当面はこのまま続きそうである。コロナ鬼も日輪刀でぶった斬れるといいんだけどな。