「SNSではネガティブなことが言いづらい」と言われて久しい。ネガティブなことと言っても、自分の生活周りの愚痴や弱音は言いやすい(それが言いづらいのはインスタか)。コンテンツや、他者に対する言及だ。これは単にFF、TLの空気に縛られているだけであり、私からしたら実に愚かしい。なので私はずっとTwitterで好き勝手発言してきたが、たしかにそれによるリスクはあった。FFの解除やブロック程度のことだったが。ただ、一方でこれは近年急上昇した誹謗中傷リスク(最悪訴訟だが、削除やアカウント凍結も含む)を回避できてもいる。今は私もTwitter自体を辞めたので、そのリスクもほぼない。結果的に潮時だったと言える。
今月、「立憲民主党が某SNSアカウントを刑事告訴したが不起訴になった」というニュースがあった。まだまだ刑事立件は厳しいが、近年民事ではTwitterを発端とする訴訟が多発している(結果的に刑事立件でなくても、警察を動かして示談に持ち込むパターンもある)。裁判には多大な金と労力がかかるが、もちろん訴えるのは自由だ。本当に悪質な誹謗中傷に対しては、社会的名誉のために戦うのもやむを得ないだろう。しかし、多くはそうではない(リスク回避のため名前は出さないが)。訴える方も迎え撃つ方も、それぞれのコアなファン(信者レベルの)しか喜ばない。カンパだなんだと「祭り」になり、盛り上がるのは一部だけ。しかしそれがネット言論依存者への燃料となり、陣営闘争をさらに激化させている。実に不毛である。
そもそも、裁判で「真実が明らかになる」とか「正義が証明される」いうのは幻想なのだ。法律・法廷というステージでのバトル、単なる場外乱闘にすぎない。真実がというなら、刑事と民事で結果が違うはずがないではないか。裁判結果が出たあと、よく双方が「勝利宣言」していることがあるが、少なくとも負けたポーズは取らない。そもそも裁判結果まで追っているのはコアなファンしかいなく、ほとんどの人は裁判していることすら知らない。松本人志は仮に今後裁判で勝ったとしても現時点で失った信用はもう戻ってこないし、地上波テレビ、少なくともゴールデン帯に復帰するのは厳しいだろう。
この訴訟社会、儲かるのは弁護士だけでマクロで見たら損失の方が大きいだろう。当人たちも含めて、基本得るものなんてないんだから。「闘争」に酔っている間はそれに気づかないだろうが、彼らは本来なら本業その他に頑張れた時間を無駄にしているだけだ。ブルシット・ジョブならぬ、ブルシット・ワークと言える。
さて、ここまでは現状分析で、問題はこの先にある。「エゴサする」と公言している芸能人は多いし、クリエイターやテレビの制作スタッフなどもやっていることだろう。Twitterで何かに言及して、ご本人から「いいね」がついて嬉しかった経験のある人は多いだろう。ただの悪口・誹謗中傷が多いからエゴサはしない方がいい時代から、徐々に好意的な意見しかTwitterには存在しなくなっていく。大衆の本音は掲示板やLINEのオープンチャットなどに潜っていく。この浄化は、単なる言論統制の結果だ。しかしエゴサの上級者でなければTwitterしか見ないだろう。結果どうなるか、「ネット上にはイエスマンしかいない殿様」になっていくのだ。腐敗する権力者のごとしである。
今はもうアンチすらいない私にはあまり関係ないことだが、正当な批判なら歓迎だがそういうのは過去一度もなかった。芸能人がそれらに辟易とするのはわかる。しかし批判のすべてをそれらにパッケージして、一方的に浄化してしまうのも違う。これは双方のためにならない。報道レベルではひどい誹謗中傷ばかり取り上げられるが、実際はそうではなく誹謗中傷訴訟も大半はブルシットである。以下関連記事。maoukpp.hatenablog.jp
言葉を選んで、「訴訟されても負けない」のはもちろん、「訴えられるほど憎悪されない」批判ができる人間だけが今後ネットでは生き残っていく。それができる人間は多くないが、私もせめてその一人でありたいと思う。