うたうポリゴン

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非モテ論にいっちょかみ、または柔肌リベラルへの愛のあるダメ出し

fuyu.hatenablog.com
 この記事は非モテ論の分類・まとめ記事としては優れている。さすがエアネット論客というか、ネット言論を日々読んでいるだけのことはある。これまで避けてきたネット論客の具体名を挙げながらの引用は、大きな進歩と言える。
 これを書いた環には遺恨があるし、その後デマまで撒かれた相手なのだが、私は寛大かつ公平な人間である。認めるところはちゃんと認める。能力と人格は別の話なので。
 ただ、肝心の小野ほりでいさんへの反論・主張部分がガタガタである。それについては後述する。

 環の記事では非モテ論をまず「恋愛可能性を目指すか、放棄するか」で二分している。で、恋愛工学までいかなくても前者をまず「恋愛ハウツーはナンセンス」だと言う。非モテは「絶対的恋愛不可能性」を持っているからだと言うが、その説明がない。いや、『電車男』のような逆転劇は世の中に溢れているし、夢見ている非モテだっているでしょうよ。環の定義では、私は非モテではないことになる。
 そもそも「非モテ」の定義を提示していないので、誤解されまくりで危うい(案の定、ブコメは荒れている)。ここでの非モテとはイケメン芸能人のように不特定多数にモテまくることではなく、『非モテの品格』(杉田俊介/集英社新書)から引用するとおそらくこうなる。

非モテ3:「性愛的挫折(恋愛未経験/失恋を含む)」がトラウマ化し、あたかも人格の一部となって、常日頃から、非モテ意識に苦しめられ続ける状態のこと(第二章、96ページ)

 顔面や気質はそう簡単に変えられないが、ファッションを再構築する、髪型を変える、太っているなら痩せる、スキンケアの努力をする…そういった身だしなみの努力はすべきだし、会話術も学べるところは学ぶといい。その努力はたとえ結果が出なくても尊いし、マクロに見れば好印象を持たれやすいので目先のモテ、恋愛以外で役に立つ。
 それらの何がいけないのだろうか。非モテが恋愛に「絶望しているか、してないか」は個人差があるだろうが、前者=恋愛に前向きに努力できる状態ではないと限定するのは視野が狭すぎないか。

 そして、小野ほりでいさんへの反論・否定は「共感できない」というお気持ちで終わっている。期待していたのにがっかりである。小野さんの記事はフェミニズム的に正しいから、正面から反論できなかったのだろう。

非モテが恋愛を経験すること」と「女性の人権を尊重すること」の両立には何か決定的な相性の悪さがある

 という雑感止まりだ。これについては、ミクロレベルでは「気にするな」で終わる。ミスチルの歌にもあるように、恋なんてエゴの戦士でいいのだ。ネットでマクロに意識高いことばかり言ってるとますます自分自身は生きづらくなってしまうが、男女論やってる非モテ男にはありがちな症状だと思う。
 私に言わせれば非モテ論などくだらない。恋愛可能性を潔く諦めるか、それができないなら努力するしかない。そして後者=努力で結果が出なくても最終的には、『非モテの品格』にも書いてあったように、絶望して腐ったり暴力に染まったりせず気高く生きよう。だからインセルなど論外。それで終わりの話。

 さて、上記記事の二つの批判、論点は実は共通している。それは他者に何かを「押し付けること」だ。

 環のようなパターナリズム大嫌い優等生の、「柔肌リベラル」の限界がここにある。目指すべき社会の理想はあるが、それを他人に押し付けることを極度に嫌い、結果、何も言えなくなってしまう。だから分析止まりの記事なら書けるが、それ以上の発展がない。だから、過去記事でラジオの失言で炎上した岡村隆史に対して「変わらなくていい」とか寝言をほざいてしまう。

 今回は、かつてそれなりに親交があった人間として、愛のあるダメ出しをしたつもりだ。誹謗中傷と取るならそれでもいっこうにかまわないが。