うたうポリゴン

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終戦記念日のシーズンこそ、ドラえもん映画を

はじめに

 お盆休みそして終戦記念日のシーズンである。だからこそ、ドラえもん映画である。なにせ、一歩間違えば地球はメカトピア星の鉄人兵団に侵攻され、人類は奴隷にされていたのだ。
 我々が今こうしてのんきにインターネッツなんてやっていられるのも、全てのび太たちのおかげなのだ。「それはフィクションの話だろう」と言われればそれまでなのだが。

 話がいきなり飛んだが、今年になって『新・鉄人兵団』(2011年)を観たのをきっかけにドラえもん映画にハマり、2期(2006年以降)劇場版を消化している。全部観たら記事にしようと思っていたが14本の一気レビューは無謀すぎる。なので今回は概論とイチオシの『新・鉄人兵団』のレビューにしたい。
 ドラえもん映画の魅力とは何か。よく言われるように冒険物としての面白さと、のび太ドラえもんをはじめ仲間たちとの友情・絆である。そしてゲストキャラとの出会いと別れがあり、また日常に戻っていく流れが一本の映画としてまとまりをよくしている。

導入部(ここまでは1話完結テレビシリーズと同じ)→スケールの大きい冒険へ乗り出す(巻き込まれる)→終結と別れ、また日常へ

 という構成がスムーズかどうかも、ドラえもん映画の評価のポイントである。

ドラえもんという「便利キャラ=舞台装置」が主演も兼ねるシンプルさ

 ドラえもんは「便利キャラ」というモデルを集約した存在である。たいていのフィクションは『名探偵コナン』の鈴木園子のようなお金持ちキャラがこの役を担う。あるいは主人公が大物政治家と仲良くなったりして「特別に」どこかに入れたり活動できることが多い。普通のフィクションの場合、これらの「便利キャラ」にさした意味はなく、単なる舞台装置である。主人公・ヒロインやメインキャラとはあまり関係ない場合が多い。
 ところが、ドラえもんは主演どころか定義上は主人公である。劇場版はタイトルに「のび太の(と)」とあるように実質的主人公はのび太で、そのパートナー的存在(厳密には「量産型の子守用ネコ型ロボット(友達タイプ)」らしい)ではあるが。
 ともあれ、この「便利キャラ=主演」の構造が、話の展開をシンプルかつ感動的にしている。

のび太が小学生なので、無駄に恋愛要素をからめないで済む

 しずかはあくまで「仲間」であり、ゲスト女性キャラともラブコメ要素はないことが脚本の自由度を上げている。子供向けなようでいて、少年漫画やラノベにありがちなラブコメに辟易している大人向けでもあるのだ。当然、無用なお色気シーンもないので女性向けでもある(しずかの例の風呂くだりは劇場版でもあるが、抑えめ)。

 以上から藤子・F・不二雄先生のプラットフォーム構築力は素晴らしいし、自ら旧劇場版の「大長編」を描いていたので実践力がすごい。

否定派への反論

 次にガチなアンチもそういないと思うが、ドラえもん映画が嫌いな人のよくある意見に反論したい。というか、私も最近までこうで遠ざかっていたのだ。

ジャイアンスネ夫がいい奴すぎるし、のび太がカッコよすぎる。原作通りでない

 これについては映画を自分で観たことがないか、「原作理解が浅い人」と言ってしまおう。表面だけを見ればたしかにそう見える。
 まず、状況が違う。原作・テレビシリーズと劇場版は、日常と非常事態の違いである。そしてジャイアンスネ夫は真の悪人ではない。本当に仲が悪いならテレビシリーズでも旅行など、一緒に行動したりはしない。もちろん探せば原作やテレビでガチクズムーブはあると思うが、全て「子供のやったこと」で水に流せるのである。
 もちろん、脚本の都合もある。ジャイアンスネ夫が「協力しない、参加しない」で話が成立するか、一度書いてみろと言いたい。ちなみにスネ夫は劇場版では出木杉の「物知りキャラ」ポジションも担っている。劇場版のジャイアンあるあるとして、終盤で「ここは俺たち(ジャイアンスネ夫)に任せて先に行け」と敵の足止め役を買って出ることが多い。

 のび太の活躍についてはたしかにご都合主義かもしれない。
 一応擁護すると、射撃だけは得意なので道具や銃を使った戦闘で活躍する整合性はある。またコミュ力は意外とあるので、映画のような非常事態・乱世向きの人材かもしれない。
 そもそもエンタメ映画で主人公が活躍しないでどうするという話。また、のび太の両親をはじめ一切の大人が介入せず「自分たちだけで解決する」ところも「お約束」として楽しむべきだろう。

ドラえもんの道具=チートで問題解決、活躍しているだけ

 それを言うなら「能力バトルもの」の能力だって同じだし、フィクションの登場人物は才能、コネなど何かしらのチートに守られている。決して道具頼みでなく、与えられた状況でどう頑張るか、機転や駆け引きなどが存在するから面白いのである(ただの道具無双では面白くないから、なんらかのアクシデントで使えない局面も多い)。


 さて、ここからは個々の作品のレビュー。ドラえもん映画を比較評価する上で、評価ポイントは三つにした。「ドラえもん映画らしさ、子供向け、大人向け」である。
 一覧は以下を参照。
ドラえもん映画作品 - Wikipedia

新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜(2011年)

ドラえもん映画らしさ:B 子供向け:S 大人向け:S

 一言で言えば、「全ての要素を満たしている。エンタメ映画として完璧な仕上がり」という評になる。全体のストーリーはシリアスだが、子供向けでもある。まず「ロボットもの」の時点で男の子ウケはいいし、しずかの出番の多さ、ラストの大活躍ぶりから女の子が見ても満足度が高い作品になっている。リルルに対して激昂した時の「あんた」呼びはたいへん珍しく、歴代でも貴重なシーン。
 全体のテーマも素晴らしい。人類の歴史を振り返り、なぜ現代では反差別や平等が大切なのか、改めて知ることができる。そして、単なる反戦平和ではなく人間には戦わなければいけない時もあるという現実も描いている。

 ドラえもん映画の中では異色作ではある。まず異世界(タイムマシン、どこでもドアでの旅行や異星)での冒険がない。(基本的に)すべて現代日本で話が進行する(異星「メカトピア」も出てくるが回想シーンのみ)。なので「ドラえもん映画らしさ」はBとした。
 違和感があるとすれば、いつものキャラクターたちの頭が良すぎる。特にドジキャラのはずのドラえもんが賢すぎる。鉄人兵団相手にゲリラ戦をやるくだりなど、「お前はヤン・ウェンリーか」とツッコミたくはなるが全体を見れば些細なこと。
 リメイク作品としてのアレンジぶりも秀逸。旧作では存在感のなかった(あっさり改造される)ジュドという存在に「ピッポ」という新たな命を吹き込み、のび太-ピッポ、しずか-リルルという二つの軸ができ、物語を厚みを持たせている。
 旧作を熟知していたBUMP OF CHICKENの主題歌『友達の唄』も神がかっている(ただし、リメイク要素は含まれていない)。カラオケDAMでは映画の映像付きなので、ネタバレはあるが未見の人もダイジェストとしてオススメ(尺の長さもあり、記事末尾の予告編よりも内容が濃い)。

 スネ夫に自慢されロボットがほしい(もう持ってるだろ→ドラえもんじゃ嫌だのくだりは笑える)、からの無邪気にロボット(ザンダクロス)を組み立て、遊ぶ導入部からシリアスな展開への流れも見事であり、構成は完璧。この映画では特に「別れ」の重さがすごく、そこがまた泣けるのだが。
 例によって大人たちは介入しないが、これについては鉄人兵団侵攻についてのび太ママは「漫画の読みすぎ」と信用しないし「あちこちに電話をかけるが相手にされない」という流れをちゃんと入れているため無理がない。
 たった5人の子供が、地球を守るために戦うという戦争映画でもある。ぜひとも『スーパーロボット大戦』に参戦…できるわけないだろ(ちなみにザンダクロスは「百式」をモチーフにしたらしい)。

「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~」公式サイト
 公式サイトの予告編はFLASHだが、youtube版もあった。
www.youtube.com
 原作(大長編)漫画、旧作との比較も解説されていて素晴らしいまとめ(ネタバレあり)!
togetter.com

 というわけで、お盆休みはドラえもん映画を観るべくレンタル屋に走ろう。残りの13作品についてはまた改めてレビューを書く。

追記:書きました。
maoukpp.hatenablog.jp

絶対に入ってはいけない!IT技術者が避けるべきヤバい会社・職場8選

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 なんやかんやで10年以上外注型IT技術者をやっているので、一番実用的なネタをと考えた結果がこれである。

朝礼・昼礼、部門の全体会議がある現場はヤバい

 旧態依然とした、古臭い企業の象徴。当然パワハラブラック企業・部署の可能性が高い。社会人に校長先生のお話はいらない。

低スペックPC環境の現場はヤバい

 単にストレスがたまるだけでなく、人件費>PC経費という生産性をわかってないのがヤバい。実務作業をしたことのない人間が上にいる可能性が高い。

座席スペースが60cmの現場はヤバい

 人を人と思ってない奴隷工場で論外。

タスクをエクセルで管理している現場はヤバい

 JIRAなどを使わず職場のIT化が進んでいない会社は、これも古臭い企業の象徴。そのマクロエクセルは不満点や不具合が多々あるが、誰もメンテできない・してはいけないことが多い。

SkypeなどチャットツールがNGの現場はヤバい

 これも上と同じ。使用自体は可能でも怒られる雰囲気があったり、偉い人は読まないのでどうせメールと二度手間だからと廃れているケースもある。mixiかよ。

マウスやキーボード持ち込み禁止の現場はヤバい

 こだわりがない人でも、他にも官僚的でうるさいルールが多く、ストレスがたまること必至。

エアコンの温度調整ができない現場はヤバい

 大きなオフィスビルにありがち、地獄のエアコン集中コントロール。寒いのならまだ着込めばいいが、暑いと詰む。

やたら電話が鳴り、電話を外注に取らせる現場はヤバい

 単純に作業に集中できない。電話を多用する会社はほぼ例外なく生産性が低いが、さらにひどいのが正社員が忙しくて不在なことが多く、外注が電話を取る羽目になる現場。事務系かよ。

 IT技術者が現場に入る前にやる面談は、選考してもらう場ではない。こちらがその現場を吟味する場なのだ。なので質問攻めにしよう。細かい業務知識や技術のことなんかどうでもいい。なかなかプロジェクトが炎上しているとか内部事情まではわからないが、環境面なら簡単に知ることができる。

 もちろん使用言語やフレームワークのスキルがマッチするかも大事だが、現場環境(物理)がとっても大事なのだ。これはIT業界限らず、転職全般にも言えることだ。
 最終的には人間関係が全てだが、面談する相手1,2人だけではわからないし、外面のいいサイコパスタイプだと30分程度喋っただけではわからないというか、絶対騙される。人間を見るのは諦めよう。

 もちろん対策したつもりでも職場ガチャ、現場ガチャは運次第。ハズレを引いてしまったら、以下の記事の通りさっさと逃げよう。
maoukpp.hatenablog.jp

【悲報】議会制民主主義さん、日本国民から支持されていない【今こそ幕府を】

総務省は、今回の参院選の選挙区の投票率は48.80%だったと発表した。国政選挙では1995年の参院選の44.52%に次いで戦後2番目の低い投票率となった。
https://news.livedoor.com/article/detail/16810907/

 今に始まったことじゃないが、嘆かわしい…。ネットでも毎度毎度「選挙に行け」vs「啓蒙ウザい」のバトルがあり、辟易としている。だから私も今までうるさく言わなかった。が、今回は違う。
 選挙なんか、行くのが当たり前だろ。合理性、生産性とかガタガタ抜かすな。国民主権放棄って、江戸時代の町民かお前らは。いや、江戸時代なら仕方ないが、存在自体が憲法違反という自覚があるのか。

 今回過半数を割ったということは、国民全体が民主制を望んでいないということだ。むろん例外はあるにしても、逆に投票した人間にも白票だったり「専制政治の方が好きだが仕方なく投票する」人間だっている。
 投票率過半数割れというのは、それだけ象徴的なのである。近代国家として、恥だ。恥ずかしすぎる。投過半数割れまでくると、もはやシンプルに「民意を反映できていない」ことになる。
 組織票や村社会的しがらみ票がますます有利になってしまうのも良くない。だがそれ以上に、今回たまたまではなく毎回選挙に行っていないお前、人として恥ずかしくないのか。

 対策としては、2年前も主張したが罰金を取るしかない。情けない話だが、これが一番効果があるだろう(「義務投票制」という名前で実施している国もある)。


 ここで簡単に歴史の話をしよう。江戸時代から明治時代になって選挙ができたが、最初は男性のみ、かつ富裕層(15円以上納税)というものだった。そこから段階を経て女性でも、誰でも普通選挙ができるようになったのが今。

 自分が入れた候補者が落選したら悔しいし、逆に当選したが期待外れに終わったら無念だ。旧民主党政権に投票して、後悔している人は多いだろう。
 それでいいのだ。戦って負けているのだから。苦しくても、決断をすること。それが、民主主義だ。いきなり18歳で投票するのはたしかに難しい。悔しさや後悔を繰り返し、乗り越えながら成長していく。国家としても歴史を積み重ね、長い目でみればいい政治になっていく。それが近代のあるべき国民国家=議会制民主主義だ。

 義務・責任を放棄して戦わずに負けた人間たち…もはや「国民」と呼べたものではない。二級国民、賎民だ。
投票率 - Wikipedia
 制限選挙時代の方が圧倒的に投票率が高いという。なんの冗談だ、これは。

 そこで、提案がある。


 国民を、政治という重荷から解放してあげようではないか。そのためにはまず憲法を改正し、選挙法を明治時代まで戻す必要がある。普通選挙は凍結だ。廃止ではない。いつか民度が上がったらまたやればいい。
 日本国の国民=江戸時代の町人や農民に、まだ普通選挙は早かったんだよ。普通選挙は凍結して、200年後くらいにまた制限選挙から始めよう。

リセットされる側の「資産」になれなかった悲しみ

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 2年以上になるのか、そこそこ付き合いのあったアカウントが突然垢消しをした。Twitterだけでなくブログもろもろなので、ロックや凍結ではなく意図的なものだろう。
 垢消しにはいくつか要素がある。インターネットから完全に消えてしまう場合、別垢転生する場合。そして衝動的か、計画的か。告知があるかどうか。公開のものと、私的なものと。今回公私ともに告知はなく、一切が不明である(直前の公開告知は見逃す可能性もあるが)。
 事情はどうあれ、「一度リセットしたい」という判断だろう。それに対しては何も言えない。リセットボタンを押せるのは、ネットの便利な点でもある。
 人間関係は資産である。転職する際でも、仲のいい人には事前に告知するものだしその後も関係が続くものだ。すべてを捨ててしまうのはもったいない。
 リアルでもネットでも、この「リセットされる側」に回るのはつらい。その程度の関係だったのか…と打ちのめされる。私は「資産」ではなかった。この片想い感は異性にフラれた時の悲しみに近い。ネットの場合、依存している方がよりダメージはでかい。
 しょせんはネットである。仮に会ったことがあっても、2,3時間程度では深くその人を知ったことにならない。もちろん本名も知らない。仮に警察に事情徴収されても、たいして話すことがない「趣味だけの関係」であった。
 とはいえ、それでもやはり、寂しい。他の知り合いにも聞いて回りたいが、なんだかそれもストーカーみたいで嫌だ。だからこの場に書く。
 つまり今回は、ただの愚痴なのである。
 私が突然垢消ししたら、悲しんでくれる人はいるのだろうか。いないとしても、けじめとして公開告知はしてから消えようと思う。

リバタリアンはボクシングがお好き?


 一体なんの関係が、と思うかもしれない。厳密には「リング禍」と呼ばれる死亡(または深刻な後遺症)事故が起きる「KOを目的とする格闘技全般」なのだが、ここでは(プロ)ボクシングのみとする。
 まずこちらを読んでほしい。
リバタリアニズム
 これによると、ギャンブル、麻薬、拳銃、売春、ボクシングすべてOKとするのがリバタリアニズムだというのだ。当然人によって程度が違うが、リバタリアンを定義する時にとてもわかりやすい。
 なぜボクシングが問題なのかについては、
ボクシング存廃論
 ここで詳細は触れないが、野球の投手の球数制限のように、安全面でのスポーツのルール改正論はいつだってリベラル(人権尊重)の観点から起きるものだ。私は『はじめの一歩』が大好きだが、たしかにこの批判には一理ある。リベラルで格闘技の大ファンってあまりいない気がするし、逆に大ファンはネトウヨが多そう(偏見)。

 タイトルの内容は実はこれで終わりで、ここからが本題。以前NMRという概念を書いたが、これに関連する話をしたい。
maoukpp.hatenablog.jp
 ネットに比較的多い「自称リバタリアン」「なんちゃってリバタリアン」について考察する。インターネットアンチフェミ(弱者男性論表現の自由戦士ネトウヨ)批判シリーズの続きで、特に表現の自由戦士に多く見られる。
 なぜか。

  • 文系の中で経済学部は一番人気であり、人数が多い(専門の大学も多い)
  • 経済学や政治思想の知識がなくても(一見)わかりやすく、誰でも飛びつきやすい
  • 論理的・合理的な新しい思想っぽいものになっている
  • 増税社会保障負担増反対と結びつきやすい

 あたりだろうが、端的に言うとバカがカッコつけるための思想もどきになっている。どうもここ10年くらいのトレンドらしい。単なる情弱バカか、「俺は経済学んだんだぞ!」のイキリ経済学部卒(レジャーランド時代の大学)バカの二つに大別される。
 彼らの理想はこれ。


 繰り返すが彼らは全くリバタリアンではなく、無覚悟・無責任な自由主義者、エゴイスト、端的に言うとただのクズである。リバタリアニズムを方便・隠れ蓑にしているだけ。
 フェミニズムのイメージが一部のフェミニストのせいで毀損されているという声はよく聞くし実際そうなのだろうが、リバタリアンもそれに負けず劣らずである。でもなぜか「指導者・上層部はしっかりしろ」みたいな批判は見られない。
政治的スペクトル - Wikipedia
 このノーラン・チャートで言う「ポピュリズム全体主義」で真逆の思想なのだが、よくもまあ恥ずかしくないなと。

 私の主張はほぼこれで終わりなのだが、補強のため「日本の自称リバタリアン」についての記事をいくつか紹介する。
blogos.com
 イケハヤやホリエモンなどのネットの有名人はリバタリアンと言われており、この辺の影響も大きそう。ある程度の地位・名誉を築いた人なら社会基盤がなくなってもやっていけるし、その方がライバルも減って都合がいい。
 さらに新しいことをやるのに余計な規制はない方がいいし、批判されたくない。税金たくさん払うのも嫌だ。「強者」に都合がよく、実に自分勝手・無責任な考え方をする人たちである。
blog.goo.ne.jp
dr-seton.hatenablog.com


 田川さんの言う通り都合のいいところだけをつまみ食いしているので、キメラ・リバタリアンと呼んでもいいかもしれない。 
blog.tatsuru.com
 愛国的リバタリアンという矛盾するワードはとても秀逸。
 ネットで暴れているインターネットアンチフェミは前々から「公共の福祉」「公と私」概念がないなと思っていたが、なるほど「国家と私」だけがあってその中間がないのだ、と考えれば腑に落ちる。
 要は自分とその所属する界隈がすべてであり、「俺の人権は俺のもの、お前(他者)の人権は俺が認める範囲だけ。現行以上の拡大は認めない」という人権ジャイアニズムなのだ。
 だいたい、表現イベントなどにフェミニストが抗議する自由もリバタリアンなら認めなければいけないし、その結果自粛したとしても個人や企業の自由ではないか。「女に文句を言われたくない思想」なるものは女性蔑視、ミソジニーって言うんじゃなかったっけ。

 余談ながら、リバタリアニズムにそのものに詳しくはないが見解を述べておくと、一見合理的で公平に見える最小政府国家だが、共産主義に似た危うさ、人類の不向きさがあると思う。刑事罰の凶悪犯罪しか取り締まられず、民事とか何それってなりそう。結果的に人権軽視社会になるだろう。その点では自称リバタリアンの理想通りなのかもしれないが。結局はその人が目指す国家モデルを聞いてみないとなんとも言えない。日本人の場合、皇室についてどう考えるのかも興味深い(ただの皇室ファン存続派は論外)。

 改めて繰り返すが、ネットに多い愛国的リバタリアン、キメラ・リバタリアンは思想と呼べたものではなく、論外のクズである。これはリバタリアニズムの名誉のためにも、強調しておきたい。思想はクズの箔付けのためにあるのではない。

今こそ、喪女やBKOの話をしよう-女性向け非モテコンテンツ不足

インセルの衝撃

 まずはこの魂の叫びを聞いてほしい。
note.mu 
 誰も語らなかった「インセル女」という存在、そしてフェミニズムへの不信…衝撃的な内容である。ネットでも本当にこういう言説は少ない。あっても発信力がない。Twitterの女性アルファは絶対こんなこと言わない。
 同じ「非モテ」でも、男女で圧倒的に違う。ネットの(男の)非モテ論がなぜ「女をあてがえ」のようなイカれた方向に行くのかはたしかに謎。男性性による攻撃性だろうか。

 ネットでも圧倒的マイノリティの非モテ女性、5chには「もてない女」板というのが昔からあり、喪女と呼ばれる女性がここには生息している。代表的なスレッドを紹介する。
medaka.5ch.net
 喪女の定義は諸説あろうがこのスレの152に

15~25歳のボーナスステージに誰からも愛されなかった女だけが喪女を名乗れ

 とあったように、このあたりが有力と思われる。タイトルにもしたBKOとつながるというか、ほぼ同義だ。BKO(ブスでカネのないオバサン)とは、KKO論争の時に私が編み出したワード(キモカネに対するブスカネ)で真の弱者だと主張したが、さっぱり流行っていない。

 このツイでも述べたように、男にとって女性の非モテ層はインビジブルである。「女の人生はイージーモード」的言説がいかに偏った視野でしか語っていないかわかろうというもの。それ、美人限定の話ですから!残念!(ネタが古い)。
 逆に「男の非モテはイージーモード」と言えよう。リアルの友達と共有できるし、友達がいなくてもネットで女を叩けば簡単に仲間が見つかるコンビニエントな時代である。

女社会のルッキズム

 なぜ、女性の非モテは可視化されにくいのか。

  • 絶対数が少ない(男の非モテは学校のクラスに数人程度いるのに対し、女性は学年に1人程度)
  • 非モテ女性は男性にくらべリアルで語ることがなく連帯もしないし、ネットでもあまり発信しない
  • 上記の理由として、ルッキズムによるヒエラルキーが女子には存在し、同性間でも生きづらい(男の場合は足の速さ、喧嘩の強さが重要で容姿はほぼ関係ない)。
  • 一般社会でもネットでも影響力のある女性は、すべてモテる側(例外は一部の女芸人くらい)。仮に喪女が発信したところでウケない

 さて、4月にうちゅうリブで本田透電波男』読書会を私の主催でやったが、
uchu-lib.hatenablog.com
 実はこれとも大きく関係する話なのだ。男性向けの非モテコンテンツに女性の愛好家がいることに、以前から私は興味があった。この歪んだ、ねじれたファンは一体なんだろう。
 あえて名指しするが、『現代思想』2月号男性学特集の「生きづらい女性と非モテ男性をつなぐ —小説『軽薄』(金原ひとみ)から」を書いた貴戸理恵さんのような。ちなみにこれもうちゅうリブ読書会があった(第9回「うちゅうリブ」実施報告 —『現代思想』男性学特集読書会— - うちゅうリブ)。貴戸さんの記事は、男性非モテ論と生きづらい女性(金原ひとみさんの小説)との接点を語るエッセイだが、正直内容はどうでもいい。「男性非モテ論の女性ファン」という属性が重要なのだ。

 彼女のような非モテ論ファンは喪女なのだろうか。違う。私が非モテ男だからわかるが、当事者が異性の非モテコンテンツに共感する道理はない。
 本気で非モテコンテンツの著者や登場人物に同情したり、向き合う気もない。要は「ポメラニアンが吠えていて可愛い」的な、高みの見物をしているのだ。自分の生きづらさを部分的に非モテ男に重ねて楽しんでいるだけで、全く的外れな相似というほかない。非モテ男性の対になり得るのは、非モテ女性である。
 私はミソジニー全開なネット論客を支持している女性を「あてがわれガールズ」と揶揄しているが、これとかなり近いメンタルである。なぜ彼女たちは女叩きが平気なのかというと、叩かれているのは「主流派の女」であり、生きづらい系の自分は「反主流派の女」、そこから「敵の敵は味方」論理が働くのだと思われる。

 話を戻すと、金原ひとみさんの小説に限らず、生きづらい系女性を描いた小説や漫画はあるが、その登場人物は別に男に困っているわけではない。「男向けフィクションでは女性は美女しか出てこない」とよく言われるが、実は別の意味で女性向けもそうなのだ。小説の場合はメンタルは色々だが、多くの少女漫画がそうであるように特に外見は美女しかいない。
 なんという残酷な、ナチュラルなルッキズムであろうか。「だめんず」的な自虐・愚痴コンテンツは多いが、これも結局恋愛経験ありきである。喪女にとってはそれすら自慢でしかない。(フィクション、恋愛以外の)ダメ人間系コンテンツも、女性向けは圧倒的に少ない。
 酒井順子『負け犬の遠吠え』もダメ人間コンテンツではあるが非モテ女性を無視しており、女性向け非モテコンテンツでは決してない(こちらの記事に詳しい。-憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記 過去ログ-)。

女性向け非モテコンテンツが売れ筋になれば救いがある

 ブスは(フィクションですら)存在を許されない。だから生きづらい。それは男の不細工の比ではない。圧倒的な社会的弱者であるのに、語られない。真のマイノリティの過酷さ-といったことが今回この記事で私が一番言いたいことで、これは今まで書いてきた弱者男性論に対する批判の続きでもある。やや女叩きみたいになってしまったが、それは本意ではない。

 男性向け非モテコンテンツの女性ファンに対し、私はひじょうに嫌悪感が強かった(男性フェミニスト嫌う女性フェミニストのようなものかもしれない)。とはいえ、彼女たちがなぜ愛好者になるのかというと、女性向け非モテコンテンツが不足しているからだ(もっとも彼女たちは非モテではないのだが…)。
 本来はもちろん、喪女のため。最近は少し増えつつある。
honcierge.jp
ddnavi.com
pro.bookoffonline.co.jp
 他にも、能町みね子さんのエッセイ・漫画もここ10年くらいなので最近と言っていいだろう。時代の流れなのか、女性の非モテが盛り上がるのはいいことである。

 長々と書いてきたが、最後に触れねばならないことがある。男が喪女を語る上で最大の弱点である「じゃあお前は喪女、BKOを選んで付き合うのか」という問いが存在する。
 これについては、「選びません」と正直に告白しておく。「研究対象として光を当て向き合うことと、個人的に付き合うかは全く別である」という無残なオチで終わる。そこは女性の皆さんが連帯してください。フェミニズムの管轄なのかは知らないが。

ネットのマジョリティ、自称・ノンポリで中道なリアリスト(NMR)研究

 没タイトルは「ツイッターでアルファになる方法」だったのですが、インターネットのマジョリティについて考察してみます。
maoukpp.hatenablog.jpmaoukpp.hatenablog.jp

ノンポリ、中道、リアリスト

 今までネット論客(とその支持層)を批判してきたが、今回はそれより広域な、ネット世論の空気について。大衆と言ってもいい。ネット論客たちの支持層にも含まれるが、コアなファン・信者ではない層。自分が投影できる弱者コンテンツが好きで、積極的に政治的発言はしないが一定の傾向がある層。
 政治的な中道、穏健派を意味する英単語にmoderateがある。無党派層はindependentだが、彼らはそこまで無党派層を自称しない。「リアリスト」も好き好んで彼らは自称する。理想主義的なリベラルを冷笑し、自分は頭がいいと思いたいからだ。ノンポリの説明は不要だろう。
 インターネットの大衆——それがタイトルにもした「自称・ノンポリで中道なリアリスト(NMR)」なのである。MMRみたいになってしまった。。

NMRアルファを警戒せよ


 アルファで言うとこの手の、ヒットアンドアウェイ的にたまに政治的ネタをツイートしてファボRT稼ぐ人たち。彼らにとって、NMRはお得意様なのだ。NMRアルファと呼ぶ。やってることは冷笑だが、「冷笑系」というとネット論客を指すことが多いので。
 政治的イシューには深入りせず、敵を作らない。自分の主張が間違っていたらカッコ悪いし、訂正や謝罪などはしたくない。常に安全なところにいたい。前線に立つネット論客よりも、実に賢い立ち回りと言える。

 政治家や経営者、芸能人などが何か不祥事や犯罪などした時のバッシングというのは、昔から週刊誌の定番ネタであるように大衆娯楽である(その是非は今回は置く)。それに加え、ネットには特有のバッシングネタがある。いや、バッシングまでいかない。本気を出さず、スマートに冷笑するのがカッコいいのだ。
 彼らが冷笑・嘲笑する対象はいつも決まっている。それも底辺層というか、常にセレクティブ・エネミーをしている。もっとも最初に火を付けるのはネット論客で、NMRアルファはトレンドになったらそれに乗っかるスタンス。

NMRのモデルはこんな人

 そしてフェミニズム叩きがわかりやすいが、NMRは男女共通。というかネットの女性は概して男性的な思想の持ち主であり、「インターネット男性性」集団なのである。
 政治的には、だいたい以下のような立場が多い。Twitterももう10年、インターネット全体も高齢化というか30-40代がボリュームゾーン。今時の若者はあまりTwitterをこういう風(他人叩き)には使わず、専用垢運用が多い。なのでここでモデルとなるのは30-40代男性(性)。

  • 旧民主党政権やそれ系の政治家が大嫌い。維新も嫌い
  • なんとなく自民党を支持している
  • 増税社会保障負担増には反対
  • 累進課税強化に賛成
  • 小泉改革を恨んでいる
  • 社会的な運動や活動をしたことがない
  • 外交・国防についてはさほど意見がないか、あっても発信しない

 全くもってノンポリではないのだが、なぜかノンポリであろうとする。他者のことを「過激な〇〇」と冷笑するが、自分は絶対にそうならないという信念を持っている。自分は偏りがなく党派性もなく中道で、バランスが取れていると思い込んでいる。社会に対して熱いを想い持ったり、運動を頑張る人が生理的に嫌い。選挙や住民投票などでは常に勝ち馬に乗り、「どちらが勝っても自分は損をしない、傷付かない」という高みの見物、その実ナイーブなスタンス。
 ネトウヨのbioに多い「普通の日本人」「右でも左でもない」はたしかに大嘘だが、それと同じくらい「ノンポリ」も嘘なので大笑いしてあげよう。この、普通や中道でありたいという人の願望は一体なんだろう。食事のメニューなどで「大中小」があったら真ん中を選びやすい人間心理だろうか。
 広い意味で政治的な発言をしているのにNMRを気取りたがる幼児性は、日本人特有なのかもしれない。最高にダサいですね。